不登校という社会現象
こんにちは。大庭です。
先週末から一気に
秋が深まってきた感じがしますね。
気温の変化についていくのがけっこう大変です。
この時期は中高の定期テストが近い時期なので、
この季節の急激な変化は
体調管理にとても気を遣わせます。
いまはオンラインで塾をやっていますが、
十分に気を付けて声掛けなどしたいなと思わされます。
さて、
今週のブログとインスタライブのテーマですが、
今週末に大庭がお誘いを受けている
イベントに重ねて書いてみたいと思います。
イベントのテーマは、
『不登校』と『留学』
になります。
何というか、
わかりにくい話かもしれませんが、
不登校を「逆境」と捉えるなら、
そこから見出す選択肢の一つとしての留学、
つまり
「新しい自分の構築」
みたいな流れの話ができればと思っています。
いまのところ、
そんなに大人数の集まる会ではないようですが、
お時間のご都合つくようであればぜひお越しください。
そのイベントにつなげてということですが、
先週のブログテーマ
「通信制高校について」
と関連して
「不登校」または「不登校問題」
について書きたいと思います。
※留学の話は本業でたくさんしているので、
合わせて述べてしまうと文字数が膨大になるため、
それはまた別の機会にと思います。
実は不登校に関わること、
不登校問題に対峙することは、
自分自身にとってはおそらく
一生自分について回る
「生涯の取り組み/ライフワーク」
になるし、なっているだろうと思っています。
かつての大手個別指導学習塾の仕事では、
特にこの事を中心に扱うことはありませんでしたが、
一言でいえば、
自分自身が既存の学校に合わなかったタイプだし、
逸脱した道を「自分の道」と見定めて再起したタイプだし、
二十代の若いころの仕事においては
全身全霊を不登校生との時間に使ってきた
自負があるから、
この不登校の話は切っても切れない縁である、
ということです。
その自己体験も、
語ればとんでもない量になるので(笑)、
これが気になる方は
ぜひともイベントにお越しください。
そこではたくさん語れると思います(笑)
今日の文章では、
自分がこれまでの経験、
キャリアの中で築いてきた(気づいてきたともいえるかも)考え(不登校観)
のようなものを書きたいと思います。
不登校は本当に問題か?
まず不登校を取り巻く現状を確認すると、
「年々増加傾向にある」
の一言に尽きると思います。
この少子化の現代社会において、
不登校がどんどん増えているということは
一体何を意味していると皆さんは思われますか?
比喩表現、例え話はいくつもあるのですが、
結論だけ言えば、
です。
個人的には、
たとえば何かの逸脱行為や
変わった意見を持つ人が100人中1人いたとして、
100分の1に満たないから
ぜったいにその1人が何か間違ったことをしている、
とは言えないのではないか
と考えますが、どうでしょう?
絶対数が少ないことは「間違いの証」でしょうか?
それを不登校「問題」と置き換えてみたとして、
まあ昔々は
100人に1人みたいなものだったでしょうから、
不登校=問題
と捉えることはとても多かったのだろうなと思います。
本人が病気じゃないかとか、
家庭に問題があるとか、
よく議論されていたところだと思います。
ところがいまは
それどころの数ではなくなってきていますね。
令和4年の統計では、
中学校では17人に1人、
小学校では60人に1人、
が不登校とのことです。
しかもこの不登校の定義は、
簡単にいえば
「30日以上の欠席。病気や経済的理由を除く」
なので、
なんらかの診断をもらっている人は
カウントされていないことになります。
だから長期欠席だけみれば、
実はもっともっと多いのだと思います。
受験学年になれば
その割合はもっとではないでしょうか。
だから、17人に1人というのは
もうそれほど変わった現象ではない
のではないでしょうか?
それでもこの17人に1人は、
いきいき元気に学校に行っているとは思えません。
「なぜ行けないのか」
「行かなきゃいけないのに行けない」
と悩んだり、
多くは自分の状況をネガティブに捉えて、
「本来は行くべきなんだ」
と思っている人が大多数ではないかと思います。
でもあらためて言いますが、
17人に1人はそれほど奇抜な変わった状況ではないと思います。
もっといえば、
1クラスあたり2名以上の長期欠席が
当たり前になってきている学校のほうにこそ、
居場所としての課題や問題点が多いのではないか
と考えられないでしょうか?
変わらなければいけないのは誰か?
不登校に直面すると、
どうしてもその目の前の不登校生をどうするか、
に着目しがちです。
親も先生も、そして本人自身も。
変わらなきゃいけないのは自分
(不登校する生徒自身)
だと。
でも本当にそうでしょうか。
変わるのは、学校のほうではないでしょうか。
そしてその当たり前をつくってきた
大人や先生のほうではないでしょうか。
私個人は、
学校を否定するというわけではありません。
(あまり好きではなかったですが(笑))
学校のほうがもっと積極的に柔軟に
変わらないといけないのではないか、
と考えています。
昨今、教育改革が謳われて、
いろいろな改革がすすめられていると思いますが、
学校の在り方や先生の在り方など
根本を問うようなものではないように思います。
テストの仕方や教科書の中身を変えただけでは
解決しないところがあると思います。
少し話を逸らしますが、
私は現在教員免許取得のために勉強しています。
学習指導要領を読んだり、
教職のための授業を受けたりしてみて思うことは、
教育に対する姿勢や教員養成の中身は
とても濃いと思います。
偉そうにいえば、
ものすごくいいことが書いてあるし、
すばらしいことを教えてくださっています。
でも、
できるだけ単純なことばで
「足りないな」と思うことを述べるとすれば、
「柔軟性」と「多様性」だと思います。
こうでないといけない、
このようにすすめないといけない、
ここではこうなるべき、
というような「型」が多すぎます。
※これも一つずつ書けば量が多くなるので、
ここまでとします。
フリースクール・民間教育の意義
近年フリースクールの教育的意義が
前向きに議論されるようになりました。
それぞれの取り組んでいる教育的な中身は
じっくりみる必要がありますが、
流れは良い方向だと感じています。
教育の柔軟性と多様性、
先生自身の柔軟な思考と多様な生き方、
これをもっと
既存の教育の中に広げていくべきだと思います。
先生の柔軟性や多様な生き方が、
その多様な一つ一つが良いお手本となって、
子どもが「こうでないといけない」という
プレッシャーに押しつぶされることが減ってくる
つまり
「自分も、個性的にあんな生き方をしてみたい」
と前向きに思ってくれるようになるのではないか
と思います。
民間の教育機関(フリースクールや学習塾)で
たくさん仕事をしてきた自分としては、
その仕事の意味は
既存の学校教育に順応させるための
受験勉強の指導ではなく、
幅のある、深みのある、
柔軟で多様な教育的価値を提供すること
にあるのではないかと考えています。
それゆえに、
いまもって学校の先生の免許は取りますが、
在野の教育に関わる生き方はしていこうと考えています。
不登校は社会現象・社会への警鐘
話が少しまとまりなくなっていますが、
そもそも不登校は
もう「問題ではない」
のだと思います。
言ってみれば、
「現象」であり社会への「警鐘」
なのだと思います。
ただ、その現場では
若者は悩み苦しんでいるケースがほとんどです。
だから関わる大人は「型」にとらわれることなく、
その子自身をみて関わってあげないといけない。
そんな風に思います。
生業ということばとは少し違いますが、
自分の進む道にはいつも
この不登校や不登校問題が付きまとっていると、
前向きな意味で
「生涯にわたって関わる事柄なんだ」
と思って過ごしています。
そして不登校が全然問題ではない、
悪いことではないと
少しでも伝えられるようでありたいと思う次第です。
今回のブログでの記載に
言葉足らずや説明足らずのところがあれば、
また別の機会にしっかり補足していきたいと思います。
今日のところは長くなりましたので、
このあたりで終わりにいたします。
(大庭)