第137回「よく生きること ~エピクテトスを読んで~」

第137回 探究型ワークショップ実施!
テーマは「よく生きること ~エピクテトスを読んで~」です。
 
 

本日の問い

もし自分が奴隷だったら、
何を考え、どのように生きるだろうか。
また幸せだと思える人生を送るためには
どんな心持ちで、何を実践すれば良いだろう?
 

グループトーク

インプットセッション

>>ストア派(ストイックな生き方)は「すべてから自由」ではなくて、「やりたいことのために出来ることをする」(相手の悪口?別に私が好きなんだからいいじゃん!)というスタイルなのですな。。
>>*エゴサ(インターネットで自分の評判を検索すること)で苦しまない方法は「検索しないこと」ですもんねw
「いいね!」を押されるのが好きでしょうがないと、「いいね!」のために何でもしちゃう…(迷惑UTUBERとか)
>>「俺ベンツ乗ってるぜ!」と「俺ベンツ作っているぜ!」
↑どっちが素敵かな…というヤツですな。
>>美しい食べ物の画像アップしていいね稼ぐ人
>>キラキラ系ですなw
 

グループトーク本編

 
ーーー
 
【自分が奴隷ならどうする?幸せだと思う人生を送るためにどうする?】
良い意味で「諦める」OR「ナッジを使う」
 
A、諦める
諦めるの語源は「明らむ」、つまり、「つまびらかにする、明らかにする」こと
できる範囲で最大限により良く生きる。
 
B,ナッジを使う
(たしかにローマは奴隷がいて、
 
奴隷は人権は認められず商品として売買されていて、
主人は奴隷の生殺与奪の権利を持っていたが、
主人に対して利得を齎す者は比較的優遇されていた。
「私は教えるの得意なので、私に学ぶ機会をください!
 家庭教師としても役に立ちますし、
 実績があれば、私を転売してもうけることも…」
 なんてプレゼンした方もいたとか…)
 
*ただ、それが合わないのなら…
 自分の命は結局のところ自分のものだ。
 
おまけ1:
奴隷かどうかも大切な論点だが、
それによって生じる問題を解決していくのがいいかも?
(奴隷は”モノ”なので力持ちが爺さんになると、
 島とかに捨てられていた。
 それがいくら何でもイカンだろ!となって禁止令が出た例も。
また、現代には奴隷制はないが、”同じような問題”に苦しんでいる人も…)
 
おまけ2:
好きと必要はだいぶ違う。
*お米は美味しいが、お米の奴隷かどうかはその人次第。
 
>>現代人は平民…と思いきや、実は奴隷かもしれない?
>>じゃあ僕たちは水の奴隷かな?
 
ーーー
 
【自分が奴隷だったら】
今日は暴力無いといいなあ
今日はご飯食えたらいいなあ
とか考えいつか解放されるかもとかいう淡い希望を持ちながら過ごすことしかできないと思う。自分なら。
 
【しあわせだとおもえる人生】
ある夢に向かって頑張って踏ん張って、その時に応援してくれていた友達と一緒に喜べたらうれしいなって考えながら幸せに生きています
 
ーーー
 
【本日の問い】
もし自分が奴隷だったら、何を考え、どのように生きるだろうか。また幸せだと思える人生を送るためにはどんな心持ちで、何を実践すれば良いだろう?
もし自分が奴隷だったら・・・
奴隷という中で、いかに精神的な面では自由であろうとするか?って思います。
些細なことでも楽しみを見出す。
睡眠の前の僅かな安息をも楽しむ。
その人の気持ちの持ち方とも思います。
諦観(物事などを入念によく見ること、本質をはっきり見極めること、事態を察すること)
また幸せだと思える人生を・・・
時間の奴隷にならないようにすること?思っています。
できるだけ縛られない行動をする。
あまりあからさまに怒りをあらわさず。
穏やかに?
 
>>今は子供たちも、忙しそう、、
>>サッカー部忙しそう
>>
https://keiei.proweb.jp/news/0/332/409/
時間の支配者になるためにみたいな話があった
>>自分の意思だと思うものが、本当に自分の意思なのか分からない
>>何を持って自分の意思というのか、判別ってかなり難しい
>>志望校とか
>>今も奴隷
 
ーーー
 
まずは死なないことを最優先する
奴隷から抜け出したいと思う
→皆に天賦人権論を説く
→主人にしばかれる
 同僚の奴隷からは「あきらめて奴隷は奴隷らしく生きるしかねーんだよ」とバカにされる
→はじめに戻る
以上の無限ループ
ただし、そのうちに仲間が罪もなく殺される等の事件が起こり、皆の心に火がつくタイミングや人知れず体内の刃を研いで貴族の家庭教師に登用される機会をじっくり待つ
 
【幸せになるためには?】
 
「こうでなければならない」という思い込みを排除すること
 
世間的な「普通」を意識せず生活すること
 
すべて世界を作っているのは自分であり、自分事ととらえること
 
鈍感力を生かすこと
 
>>自分を引き立ててくれる人の存在も重要
 
ーーー
 
もし自分が奴隷だったらを考えるのは難しい。かなり。
奴隷として生まれた、と奴隷にされた、でも違いそう。
 
その身分に生まれた場合、教養を身に付けられるかもわからない。
その場合は、日々与えられた仕事をし、必要な糧を得るだけだろう。それ自体はもしか
すると満足のいくことなのかもしれない。
 
もし、自分が教養を身に付けられるチャンスがあった場合、
(神のみぞ知る)
二つの思考にたどり着きそうな気がする。
 
奴隷としての生をまっとうする
※与えられた人生だから仕方がない。思い悩まず、憂うこともしない。
 
教養が身につけば、奴隷という制度がおかしいのではないか、と考えそう。
来るべきに備えて、学ぶ。
よく働き信頼を得ていく。
※旧約聖書ではヤコブの息子ヨセフのように(兄たちにねたまれ、捨てられて売られていく。エジプトで奴隷になるが、ファラオに認められ重要な役を与えられる。それにより結果的に飢饉で来るしむ親たちを救うことになる)
※または、小室直樹の言葉を借りると「行動的禁欲」
為すべきこと、
たどり着きたい場所、
大義名分、
それらを実現するために、ほかのものに目もくれない状態が「行動的禁欲」
あれはダメ、これはダメの禁欲ではない。
結果として、禁欲的になる。
 
きわめて理想を言えば、こんな生き方ができれば。
でも、前者で終わりそう(笑)
 
ーーー
 

ファシリも考えてみた!

☆もし自分が奴隷だったら?
 
〇奴隷ってどんな状態?
・誰かの所有物にされること(by wiki)
・所有物であり、主人の役に立つためにいる存在なので、当然状況に応じて自由はかなり制限される
 
〇奴隷だったら何を考えるか?
 
~生まれつき奴隷なら~
・疑問を持たず受け入れてしまうかもしれない、、
・大学生時代、お金持ちのお坊ちゃんを「いいなぁ」と思うことはあるけれど、それだけだった
・望んだところで彼になれるわけではないし、自分がその立場になることをイメージしたわけではなかった
 
~奴隷に落とされたら~
・はじめは嫌で仕方がない
・何とかしてはい上がらなければと思う
・けど時間が経つと、慣れてくる
・結果的に適応し、何も思わなくなりそう
 
ただし、
自分の信念、本当に大事にしていることだけは意地でも手放さなさそう
現状をただ事実として認識し
自分がこうなりたい、こうしたいと思うことを一心に抱き
ひたすら目指す、そのことだけを考える。
 
その意味で、
・意志、自分がどう考えることだけは自分のもの
(神でも奪えない)
・不満があろうが、納得いかないことがあろうが、そこにとらわれてはいけない
(感情の奴隷にはならない)
⇒現実を認識する
⇒自分の心の中を認識する(気づきを入れる)
そういった価値観については、エピクテトスに大変共感するところ
 
〇どうにかできるのは自分だけ
他人がどうとか、環境がどうとか、考えたくなるけど、考えても仕方がない。
泣いてわめいても、どうにかできるのは自分自身だけだから。
前職の社長さんが言っていた好きな言葉
⇒「○○が悪い」って、実際そうなのかもしれないけど、そういったって仕方なくないか?誰かのせいにして終わって、それで満足なのか?
 
☆幸せだと思える人生を送るには
〇周利槃特の話
彼はお釈迦様の弟子の中で、最後に悟りを開いた人物
頭が悪く、発達障害だったともいわれている。
自分を責める彼に対し、お釈迦様は毎日の掃除の修行を命じた。
何年も、何年も。
なぜそれをするのだろうと疑問に思いながらもそれに取り組み続けた彼は、最終的に悟りを開いた。
このエピソードの意味するところは、
掃除を通じて自分の行動に気づきが入り、
ひいては心の中に気づきが入り、
そして悟りを開いたのではないか、
だという話を聞いたことがある。
つまり仏教で悟りを開くために必要なことは
「気づき」を入れること。
まあ宗教的な部分はさておき、
実際人間は自分に対して「見えていない部分」がとても多い。
単純に自己客観視って難しいし、
「潜在意識」という言葉もあるくらい、
心の中なんて大半は見えない。
でもそういうのを認識できるようになったらどうだろう。
(人は潜在意識の中で60~70分の1秒(1刹那)に1回ものペースで何かを考えているらしい。それが所謂「潜在意識」と呼ばれるもの、、だったかな?)
カウンセリングか何かで、
悩みの種が明らかになると心がスッキリすることがある。
気づきが入るというのはそんな感じかもしれない。
(言葉にできる、とも表現できるのかな?)
自分の心の中、癖、行動、そして人生までをも正しく認識する。
そうすれば、もはや見えないものは何もなくなる。
 
(と、とある方からいただいた仏教的な教えですが、今回のエピクテトスの価値観もかなりこれに近く、とても腑に落ちています)
 
ーーー
 

ファシリテーターより

今回もありがとうございました!
ファシリテータ―の木原です。
 
今回は、奴隷の哲学者「エピクテトス」を題材とした探究を実施してみました!
(エピクテトスの哲学を絶対的な正解とするものではなく、賛否両論OKというスタンスです)
 
今回の問いかけには主に2つの要素が含まれています。
1つは「もしも自分が奴隷だったら?」
そしてもう1つは「幸せと思える生き方をするには?」
です。
 
1つ目は、
「自分は奴隷ではないけど、もしそうだとしたら…」
という仮定の問いになりますが、この探究を通じて
自分は何か(誰か)の奴隷になっているのか?
さらには自分を取り巻く状況について
何か気づきを得られればと考えました。
 
2つ目は、エピクテトスの哲学を踏まえて話し合うということで、
今回参照した本のコンセプトも参照しつつ、
どうすれば「よく生きる」ことができるか
を考えるための問いとなります。
参加者の皆さんからそれぞれ意見を出し合っていただきました。
 
今回も、あまり上記のグループトーク記録に書ききれていませんが、様々な奥深いトークが行われています。
個人的には「意思」に関するやりとりがとても印象的で、
「自分の意思で決断する」
とはどういうことなのか、とても考えさせられました。
 
例えば分かりやすいのは受験の際の志望校決めです。
「私はA高校に生きたい」
と表明したとしても、それが100%自分の意思とは限らないのかもしれません。
(そもそも高校に行くのは、皆が行くからかもしれない。=進学率が半分くらいだったら、行かない選択肢も考えるようになるかもしれない。またA高校にどうしても行きたいわけではなく、担任に勧められたからということも…※それが悪いという話ではありません)
 
※パッと出てきたのが受験の例でしたが、それ以外にも様々だと思います
 
さらに考えを進め、
現代日本においては、
意識的にか、無意識的にか、
あえて自分の意思を放棄している(他者に委ねる)人も
いるかもしれないという視点も話題にあがりました。
自分の意思で決めるためには、ある程度の自立度や(結果に対して責任を負う)覚悟が必要だからでしょうか。
この状態は、エピクテトスに言わせれば、唯一、神ですら奪えない「自分の意思」を放棄してしまう、奴隷状態といえるかもしれません。
果たしてそれで良いのだろうか、、考えさせられます。
 
「幸せと思える人生を送る」ことについても、
皆さんそれぞれの意見を出していただき、
「なるほど。たしかにな~」
と思わされることばかりでした。
とても深いテーマなので、
時間内に探究しきることはできませんが、
皆さんにとって何か考えるきっかけになっていれば幸いですし、
また機会があれば話し合ってみたいなと思います!
 
ご参加くださった皆様、ありがとうございました。
またやりましょう!
次回は11月19日(金)19:30~21:00
第138回「苗字」を予定しています。引き続き、楽しくて学びになる探究の場を実施してまいりますのでお楽しみに!